こんなブログなんて読まなくてもいいのでこのブログを見てほしい、という何をしてても嫉妬されるし刺激されるという話
世の中にはやはり素晴らしい書評をする人がいて、その文章はある人種にぐっさりとささる。
よい意味でも悪い意味でも。
やっぱり自分よりいいものを生み出す人を見ると尊敬より嫉妬のほうが先に来るのはなぜだろう。
いかにマンガ好き暦が長かろうと物書きとしての実力には関係なく今の私の姿は身の丈にあっているものである、とか、物書きのレベルがどうであろうと私の人生に対した影響を与えるわけではない、とか、嫉妬することに意味がないと分かっているのだ。頭では。
衝撃を受けたのはこの「この夜が明けるまであと百万の祈り」様の書評だ。
まずタイトルがかっこいい。なんなんだ社会人はリラックスはしたいって。ちょっと昔のラノベか。
私は言語化して伝えることが苦手だ。
漫画の感想もおすすめしたいものがありつつも、「いい記事」にならないと思って下書きのままになっている記事がいくつもある。
自分の実力不足を痛感するばかりの毎日。
その「いい記事」が突然目の前に現れた。
一つ目はヒナまつりの記事。
タイトルからして説得力が凄い。
そうなのである、ヒナまつりの面白さの言語化は非常に難しい。他人におすすめするときも説明に窮して数秒間黙った挙句、「おもしろいから読んでみ」くらいのことしかいえない。
私は本の魅力というのは「ここが面白い」と具体化し、「~と同じくらい面白い」と定量化しないといけないと思っていた。もっと抽象的なことをいうのであれば本の感想を凝縮して、すべてに共通するエッセンスを提示しないといけないと思っていた。
がこの記事では、何がおもしろいのか不思議に思いつつも、面白いと思う部分をひたすらに共有、分析することで十分に本の魅力が伝わるようになっている。
ずっとこの漫画すきだった私のような読者もあーそうだなと思えるし、未読の人も気になって手にとってしまうのではないだろうか。
伝えたい伝えたいと思っていたマンガの魅力がこうも完璧に表現されたとき、最初はオー凄いなと普通に感激し、なんで自分にはかけないのだろうという落胆が追ってきた。
まーヒナまつりのようなメジャー?になったマンガならしょうがないという気持ちがあった。
なんか愛の深さと書評の素晴らしさが比例するのではないかという意味不明な考えを自分の根本的なところに抱えており、それを背景として、私が購入したのは原作2巻発売の時期だからだしな、この人は1巻からの読者なのだろう(実際どうなのかは知らない)と自分への逃げ道があった。
逃げ道が一瞬で否定されたのがこちらの記事。
お勧めされたというマンガをこうもあますことなく紹介できるというのはどういうことだろう。
ずっと好きだったマンガをうまく表現できずに、自分の記事が完成する前に、自分にとっての理想が前に現れた。
もーふて寝だ。
なんで自分にはうまく書けないのか。
なんで客観的な理由を把握しているのにこの嫉妬の感情はわきあがるのか、どこかにいってくれないのか。
私の心の柔らかな部分が刺激され、つらい。
この表現というのは私がずっと向き合ってきた課題だ。
これまでは私という人や私の仕事を評価する人は近しい人だった。雑談もするし、普段の姿も見てくれている。人柄だったり、研究内容の難しさだったり私の実力というものを把握してくれている人も多かったと思う。
何をもって正確な評価とするかは難しいが、少なくとも自己評価との他人からの評価がずれていると感じることはなかった。
私は文章などによる表現が苦手だったが、行動では表現できる人間だった。それが、その表現不足を埋めてくれていた。
最近は違う。
関わる人がどんどん偉くなり、どんどん社外だったり遠くの人になっていく。
私の普段の行動なんて知らない。
さて行動での表現がうまくいかなくなり、あらゆる歯車が回らなくなりつつある今、何をすべきなのでしょうか。
まったく関係ないが、この書評も素晴らしい。
この映画に対する書評はこれと見つからなかったもうひとつが好きだ。映画の内容には私が突きつけられている何かが多分に含まれており今読むのは多少辛くもあるが。