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映画「幼女戦記」 アニメ的な表現の美しさに感動しつつも、戦争って怖いなって思った【ネタバレ】

このところ忙しく、結局なかなか見にいけていなかった映画「幼女戦記」ですが、やっとこさ見ることが出来ました。ネタバレありの感想です。

 

 

最初に振り返って

良かった!

アニメ映画というのはやはりアニメーションという表現のひとつの完成形ですよね。大音響で、大画面の大迫力で、動きまくると言うのは満足感がとても高いです。映画「幼女戦記」も特に後半は動きまくりますし、声がつくと情報量が多くなって没入感が増します。

 

あと意外に女性ファンが多いことにも驚きました。5週目の夜ということで人が少なかったのもありますが、映画館の2割くらいは女性だったように思います。少ないようですが、これくらい女性がいるというのは他のアニメ映画だとFateくらいじゃないかな。主人公が女性キャラというのが大きいのでしょうか?中身はおっさんなのですが。

 

 

英雄的な前半と冷や水を浴びせられる後半 

印象的だったのは、前半は連戦連勝で勝利の余韻に浸っているのに、後半はたとえ勝利したとしてもそこに喜びはなく、ただただ消耗した兵士たちが在るという部分です。

それでも、戦争をする上ではそんなことは関係ないのですね。雪で戦死者が覆い隠されていく様は、どうあっても(前線の)人の死は無視されてしまうのだという無常さを感じてしまいました。

勝利”国”はあっても、真に勝利した”人”というのは戦争にはいないのかも。

 

 

物量の恐怖

防衛線では映画クオリティが発揮されていましたね。

やっと守りきった街なのに押し寄せる大量のモスコー兵、というのは心情的にはもちろんのこと、視覚的にもインパクトのある状況でした。一騎当千の大隊であっても対処しきれない飽和攻撃とその絶望感を見事に描写しきったこの部分はこの映画の一番のお気に入りポイントです。

これを説得力ある絵で見れたのは映画だからで、週刊アニメだと無理だったでしょう。(全世界で売れたオーバーロードですら画面を埋めるのは難しかった)

 

史実とリンクした出来事が多いこの物語なので、実際にはどうであったのかに想いをはせてしまいます。現代日本も中国とことを構えるとあんな感じになるのだろうか。怖い。

 

 

203大隊

アニメとは違い、映画では部隊が存在する状態からスタートしていたので、面々の描写がある状態で戦いが進むというのは良かったですね。 酒場で調子に乗ったり爆撃機を墜として喜んだりと感情を表にだすグランツいちいち有能でかっこいいヴーシャがお気に入りです。

 

砂漠戦や救援戦はさらっと流されており実はちょっと物足りない気分だったのですが、最後の防空戦の密度の高さよ。人とモノがごっちゃごちゃでよく分からん。(笑)どうやって自らを守りながら相手を攻撃できるのでしょうか。

 

  

ターニャとメアリー

この映画の見せ場はなんといってもこれでしょう。能力の高い主人公vs火力が高い敵というのは一種のロマンです。

 

ターニャは参謀という立場上戦略と戦術を重視し、存在Xの力による能力ぶっぱで勝ち星をあげているイメージもあったのですが、個人技もやっぱり未だにトップレベなんですね。ぼこぼこ撃つメアリーに対してビルの合間を縫って避けようとする空中機動はさすがです。

(大火力のメアリーと合間を縫って戦うところはスターウォーズ感がありました。あんまり関係ないのでしょうが、ちょっと楽しい。)

 

そしてそんなターニャに事実上、勝利を収めたメアリーの規格外っぷりはいっそのこと気持ちよかったです。ワールドトリガーの千佳とかもそうですが、女子供+大火力というのも燃えるコンビだ。

メアリーは射撃が下手で、子供っぽくて命令も効かない、存在X頼みの軍人にも見えましたが、雪国出身だからかスキーを履いた機動は美しかったです。 動きがあることで見えてくる彼女の歴史ですね。

 

 

メアリーの望みとは

皆さんも思ったのではないでしょうか。はよトドメをさせよって。

 

少佐をあそこまで追い詰めたのは流石ですが、なぜ最後の一押しをしなかったのでしょうか。ドレイクからはただの復讐者ではないか?というような指摘がなされていましたが、父親の敵を討ちたいという具体的な望みがあるのではなく、あるのは理不尽なこの世に対する反抗心、やり場のないやるせなさだけなのかもしれません。

 

そんな不満を爆発させる相手としてターニャを選び、苛烈な攻撃を仕掛けますが、決して殺したいわけではない。幼女を容赦なく殴りつける凄惨さと、女神像を見て安らぎを得る彼女には奇妙なアンバランスさを感じます。

ターニャもターニャで殺しきることを意図していないように感じました。あんなにボコスカ撃たれてメアリーが生きてましたからね。

殺すべき戦争で殺さず、守られるべき子供たちが戦い、彼女たちは戦争が生んだ究極の違和感だなぁ個の感情と正義の名の下に戦争を行うメアリーと、法の枠内で政治(外交)的な必要性と合理を重んじて殺すターニャは対極の存在でありながら、奇妙な一致も感じました。

 

そして最後はステンドグラスをつっきて退避します。あっているかは分かりませんが、教会に日光を取り入れることが出来るステンドグラスは”光”や”神”の象徴として語られることが多いです。そんな存在を割って生き延びる彼女の行く先はどんなものなのでしょうか。今のところ、ただのモンスター的な扱いなので彼女の物語もみたいなぁとも思います。

両者ともに戦争に辟易としているのに、戦争が終わらない。なんで?

 

 

戦記モノとギャグのバランス

随所随所に挟まれる「どうしてこうなった?」という描写を見ると、幼女戦記という作品の根幹は何なのだろうか?と思いました。

 

確かに偶然や意思のすれ違いを積み重ね、どうしてこうなった?と思わずいってしまうギャグ展開は幼女戦記の話の展開の一つで、視聴者の楽しみの一つのはずです。ただ、、、防衛線での消耗やメアリーの慟哭、世界大戦の行く先の示唆などを経た後にこのギャグ展開が来るのはちょっとついていけない感がありました。

 

そう、もともと私はどちらかといえば「幼女戦記」をギャグではなく、戦記モノと捉えているのでしょう。思えばアニメを見ている頃から、ターニャのギャグ顔に少し違和感を覚えていました。エンディングで流れるターニャ(原作)の絵がすばらしかった(これはロリヤが(検閲済)になるのも分かる・・・)こともあり、変顔を抑え、もう少しシリアスに戦記モノにパラメータをふった「幼女戦記」がみたいなー。

漫画が好きなのはこの辺りのバランスが良いからかな。

 

 

救世主 同志ロリヤ

ロリヤというネタ要素がなければ、ギャップはもっと大きなものになっていたでしょう。そう考えると、この映画の一番の重要人物はロリヤなのかもしれません。もう本当に気持ち悪かったおっさんのキモさと権力者の執着が煮詰められて体現したような存在で、セクハラを受ける女性の気持ちがなんとなく分かったような気がしました。

漫画版ヴィーシャは”かわいくなぁれ”と書かれているのと同様に、ロリヤは”気持ち悪くなあれ”という純粋な願いを感じます。序盤でヴィーシャの尻がやたらと凝っているなと思ったのですが、ロリヤの顔芸に作画エネルギーを裂くなんてアホなんじゃないのか。(笑)

 

 

映画の感想としてはこんなものでしょうか。ドレイクさんお疲れ様ですと言う章を作っても良かったのですが、少しずれた上の方針に振り回される部分を書くのは、社会人的に気分が暗くなるのでやめておきました。(笑)

戦史について書かれている本をちょろちょろと読んでいるのですが、そのうちいくつか良作を紹介できたらなと思います。

 

 

 

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